2007年11月22日木曜日

第9回「自己憐憫に対する訓練」

今回のテーマは「自己憐憫」、前回の続きです。「自己憐憫」には色々な危険な罠が潜んでいます。そしてそれに一度はまり込んでしまうと、なかなか這い上がってくることは出来ません。その罠とは何か?私たちは、どうしたらその罠に対処できるのでしょうか?(参照箇所 Ⅰサムエル21章1節―22章10節)

自己憐憫の最大の罠は「被害者意識」「ひがみ」です。聖書に登場するサウルは、見事に、その罠にはまってしまいました。そしてその「ひがみ根性」がますます人を遠ざけ、彼を孤独にしていったのです。彼は一国の王でありながら、「自分」の苦しみばかりに目を留め、部下も「自分」のために心を痛めるべきだと決め付け、それを要求していたのです。でも本当は、まず彼が王として、自分が部下の悩みに耳を傾け、その労をねぎらい、励まさなければなりませんでした。そう考えると、本当に孤独なのは部下の方でした。

自己憐憫は、私たちの心を、他人の「痛み」に対して鈍感にさせます。その時、私たちの心のアンテナは、自分の「痛み」にしか向けられていません。そして自分が一番悲しい、この痛みは誰にも分かるはずがないと決め付け、周囲に対して心を閉ざしてしまうのです。聖書にはこうあります「ただ彼は自分の肉の痛みを覚え、そのたましいは自分のために嘆くだけです(ヨブ14:22)」と。そうしていると、周りの人々も何も言えなくなり、段々あなたから遠ざかっていきます。そしてあなたはますます孤独になっていきます。

もしあなたが、そのアンテナを少しでも外に向けるなら、周りの人々も、色々な気持ちを抱えて生きていることに気が付くでしょう。主の御心は、あなたが自分の悲哀に暮れることではなく、周囲の人々と「ともに泣き、ともに喜ぶこと」です。クリスチャンは、たとえ試練の中でも、他人の「痛み」に対して、なおも心のアンテナを張り続けるのです。

人生の訓練の著者、エドマン博士は厳しくこう指摘します(p88~要約)。「自己憐憫は、人をますます哀れな人間にしてしまい、他の人に共感できない鈍感な心を生み出してしてしまいます。その人は、周りの人には『困った人だ』と思われているのに、それに気づかず、あたかも自分のことを重要人物であるかのように思い込み、皆が自分のために心を痛めるべきだと思い込んでいるのです。しかも、その無理な要求がかなえられないと、ますます悲哀に暮れるのです」。まさに悪循環です。

どうしたらこの自己憐憫の罠から抜け出せるのでしょうか?その秘訣はダビデの祈りにあります。彼はある時、命を狙われ、極度のストレスにさらされていました。そして状況はサウルと同じく、誰も彼の「たましいに気を配る者はいません(Psa142:4)」でした。でも彼は、その気持ちを、そのまま神様のところにもって行き「主に哀れみを請い、自分の嘆きを注ぎ出した」のです。これは、単なる自己憐憫とは違います。彼の周りには悲しみのオーラではなく、平安のオ-ラが漂っていました。すると不思議なことに、彼の周りには、いつも多くの人々が集まって来ました(142:7)。

もちろん信頼できる人と、悲しみを分かち合うことも大切です。しかし「神様からの哀れみ」ではなく「人からの哀れみ」ばかりを求めてしまうとき、私達は「ますます哀れな」人になってしまうのです。◆ダビデは、そんな時にこそ、まず主に、哀れみをこいました。しかしある人は思うかもしれません。「私は祈れないほど心と信仰が衰弱してしまうこともあるのです」と。確かにそうです。そんなときはどうしたらよいのでしょうか?◆そんな時は、その「祈れない寂しさを抱きしめて」その心を、そのまま主の前に注ぎだすことが出来るのです。その時、閉じかけた心の扉は、またほんの少し開かれ、その隙間から、やさしい光が差し込み、再び交わりに帰っていく勇気が与えられるのです。素晴らしい詩があります。題「寂しさを抱きしめて祈る」石井綿一「癒されない心の祈り」(教文館1998年)。最後にその一節を引用いたします。

朝に涙し 祈りつつ泣き暮れていました
時に 大声でわめくように号泣したい
何もかも投げ捨てて 誰の顔も見えない声も届かない
心の闇を さまよいたいと思いました

けれども どうすることもできない 孤独と不幸を
拒否して生きることはできないのだと
今は 思い定めています

祈れない寂しさを抱きしめて もう一度祈ります

この寂しさをエネルギーに変えて
もう一度 神様に祈りたいのです



・・・聖書の言葉・・・
私のたましいを、牢獄から連れ出し、
私があなたの御名に感謝するようにしてください。
正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。
あなたが私に良くしてくださるからです。」(詩篇142篇7節)